今日は日曜日。ルームメイトに連れられて、教会に行ってきました。
何年ぶりだろう。留学したての頃にホストに連れて行ってもらってたっきりだったから、実に5年近くぶり。
毎回誘われてはいたんだけど、前行ってたからどういう所かは分ってたつもりだったし改宗するつもりも全くなかったから何とか理由つけて断ってきてた。それに何と言っても、あの場の空気がなんとなく好きにはなれなかったんだよね。
まぁ、宗教に関しては穏健派とでも言いましょうか、おおむね理解はあると僕自身は思っています 笑。
宗教なんかがあるから問題(大きくなると戦争)が起きるんだという意見も事実だと思います。でも、それが全てでもない。・・・と、思っています。
僕の意見を最初に言っておくと、『宗教はあっていい』と結論付けてからの展開としましょう。
今回、久しぶりにクリスチャンの教会に行ってきたんだけど、熱心な信者さんたちがたくさん!!
今風に言えば『ガチ』な人ばかりでした。
そんなに教会って行った事ないから何とも言えないんだけど、俺が今まで行ってきた教会に限って言えば、建物自体が市民ホールのような感じで軽い演奏会やイベントならできるようなつくりだった。ダヴィンチ・コードを彷彿とさせるような大聖堂でやるイメージがあったので初めて行ったときは身構えて行った割に拍子抜けでした。(←見た目ね。)公共施設としても使えるみたい。
久しぶりの教会で色々考えさせられる事ばかりだったんだけど、一つがエンターテイメント性。
有志のバンドがあって、ロック調のホーリーソングを延々と歌う姿は目に焼きつくものがあると思う。
もちろん歌詞は、どれだけ神が偉大で、どんなに辛く苦しい時でも、心の支えになって救いの手を差し伸べてくれて・・・・というような歌詞をみんな純粋に両手を広げて天を仰ぎながら熱唱する。中にはステージの手前で涙を流しながらひざを突き、同じように両手を天井にかざす人や胸の前で両手を合わせ祈るような仕草で歌う人も。
ステージ上のバンドは言ってしまえば、ヒットソングを大観衆の中で歌い上げる超人気バンド。
実際、上手いしかっこいい!!!!アメリカの音楽はこういうところがあるから育つのかなとも感心してしまった。
と、同時に、ホーリーソングを常に今風にアレンジして提供することが出来ているから、アメリカ国内でのクリスチャン人口が健在なんだと思い知らされた。
次に考えさせられたのがバイブル(聖書)について。
はっきりといわせてもらうと、むずかしい・・・。え?どいうこと??ばっかり。聖書が変なこと言ってるとかではなくて、単に理解するのが難解です。でした。。。
それがこれで、これがそれで、あれ??みたいな。
僕が知ってる毎週の大まかな活動は大きく分けて歌うことと聖書を読むことの2つだろうと思います。
ホーリーソングに心を震わすほど歌うだけ歌ったら、牧師さん的な人のレクチャーになります。一章・一節ずつ、どういうことを聖書が言いたいのかということを分りやすく時間をかけて説いていきます。
まぁ、ふんだんに使われるアメリカンジョークが苦手なせいで、放送禁止用語が入って文脈が抜け落ちたようになってぽかーんな事が多いんですけど 笑。
そこで思ったのが自分の場合(仏教)はどうなってるんだろう?ということ。
クリスチャンの塊の中で生活しているとどうしても、僕のことについても聞かれる事が多々あります。
おそらく、多くの日本人と同様に宗教にたいして十分な知識はない分類に入ると思います。それでも、ブディズム(仏教)だという事は言うようにしています。
じゃあ、キリスト教ではこうなんだけど君の仏教ではどうなの??と聞かれれば、口ごもってしまう。
じゃあ、仏教って何??って聞かれれば、簡単な歴史くらいしか説明できない。
キリスト教では聖書の中で明確な言葉を使い『イエスの説いた教え』を表現する。
世界最大・最高のベストセラーとも言われる聖書だけあって、どこででも簡単に手に入れることが出来る。特定の日になると学校の中でもポケットサイズの聖書の手渡しをやっている。
これ一冊あれば、人並みに文字を読むことが出来て多少なり難しい表現も理解できるだけの感が働くのならば、「イエス・キリストは常に汝と共にある」と言えるのだろう。
それじゃあ、仏教でキリスト教の聖書に当たるものは何なんだろうって考えてみた。
釈迦の教えを説いたものだからこれは経典になると思う。
経典って大きく分けても9つもあるらしい。そこから更に細かくなるものもあるみたい。(←今調べた)
俺(浄土宗)の阿弥陀経{あみだきょう}みたいに。
仏教にもバイブルなるものが存在した。
でも、誰が持ち歩いてるかな?はっきり言って、お仏壇の前くらいでしかお目にかかることはめったにない。
ましてや、家に仏壇がない家庭なんて五万とあるだろうしお経自体を目にしたことがない人だってその倍以上いたっておかしくない。
日本国内を見てみて、仏教じゃ積極的な布教活動は見られないと思う。
縦の社会、つまり家代々の宗教の流れの中で法事(のように定期的なもの)を執り行うことで寺を維持出来ているのかもしれない。
逆にアメリカでのキリスト教会への勧誘はとっても積極的で、カードやオリジナルムービーを作るだけじゃなくて、教会に来る一人ひとりが歩く広告となって誘ってくる。
それと似て積極的な布教活動を行っているのが創価学会だ。
日本での活動はさることながら、こちらアメリカでの仏教徒に限った人口図を作れば学会員の人数が圧倒的に多い用に感じる。
どちらがいいかはわからない。
俗物に目がくらんだ坊さんもいるみたいだけど、贅沢や欲を言わないのが仏教なのも分るけど、もう少し積極的に布教してもらってもいいと思う。
多くのアメリカ人の中には宗教というものが一つのアイデンティティーとして、誇るべきものとしてある。
そしてそれが一つの社会を作り大きく生活に影響するものでもある。
逆に日本では、ネガティブなイメージが先行しがちだと思う。
宗教=危険の方程式は成り立たない。
熱心なのはいいが、他を受け入れられないような度を過ぎる信仰になって来た時に初めて危険になるのだと思う。
それ自体はまったくいけないものだとは思わない。
宗教が人の支えになってきたことは事実だし、それによって社会が発展してもきた。
そして、宗教がこれまで果たしてきた一番大きな役割として人に人としての道徳を説いてきたことがあると思う。
たしかに、キリスト教・仏教・イスラム教それぞれ全く同じ事を言ってるとは思わない。
それぞれが生まれた場所、発展してきた道、行き着いた場所が違うのだからそれは当たり前だ。
それでも、大まかな言いたい事は同じ又は似ているような気がする。
最後に僕の宗教観において宗教とは聖書や経典、コーランを読み上げれば天国に逝けたり全ての災いから自分を完璧に守ってくれるような魔法の言葉では決しないと思っています。
産まれたばかりの宗教や、上手く発展した宗教の中には、人としての道徳を身につけることがどれだけ大切であって、どうすれば習得できるかが含まれていると考えます。
冒頭にも言ったんだけど、実際僕は何かの宗教ひとつにおいても熱心にやっているわけではありません。
僕が出会ったのは宗教とはまた少し違った論語というものです。
世界の三大聖人として、イエス・キリスト、釈迦牟尼と肩を並べて、孔子が入ります。
次にイスラム教のムハンマドがきますが、ここでは抜きにします。
その孔子の教えをまとめた一つが論語でそのなかでも大学を読みました。
神様がどうのこうのとか、死んだら云々といってるわけではありません。
人としての生活のあり方をいってるだけです。
でも、それが道徳なのだと思います。
偏見にも似たネガティブなイメージの宗教に対する厳しい目が緩む事を切に願います。
それでも、その目でしっかりと宗教について見極める事も大切だと思います。
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